僕がデビューした80年代から2000年代はアナログマルチレコーディングから
DAWによる制作手法が誕生、定着化するまでの怒涛の期間であった。
その進化と歴史を現場で生々しく体感したものにとって、それはまさに人類と音楽の関わり方における産業革命といっても過言ではなかろう。
とりわけ音楽制作のパーソナル化、コンパクト化は手がつけられないほど多様化した。
今や当たり前となったその音楽制作の手法は日進月歩のコンピューター、ソフトウェア
との関わりなくしては成立しない。
思えば80年代当初は初期型のApple MacintoshとMark of the UnicornのPerformer ver1.2をマニュアルもない環境で勘を頼りに使いこなす手探りの制作だった。
それから40年近くの日々が流れ、今や小学生でもDAWを使いこなす。
音楽市場を取り巻く環境は激変し、制作費における格差もピンからキリである。
その中でも人々は様々な音楽を無限に生み出している。
もっとも、今の大衆の相対的価値観においては、ピンもキリも同じである。
コンピューターの出現により価値観の多様化もまたとどまるところを知らない。
それでも音楽を生業としている私は生きていくために音楽を制作する。
しかし、この常に進化混迷する制作機器、ソフト、環境を一人で切り盛りするにはやはり、
限界がある。
そんな時、谷くんがポストプロダクション環境の構築提案をプロデュースして、
ソフトのインストラクション、アシスト、メンテナンスアフターケアまでを行う業務を開始したという話は朗報だった。
海外ではこうした業務は以前から注目されてきただけに、本邦では遅すぎるといっていいほどだが、彼の考えるビジネスモデルは迷える音楽家、特に僕のようなシニア世代には本当に有難いことだった。
80年代、海外録音の現場で数多くの有名エンジニアと仕事をしてきたが、彼らは
新しい機材が出るとそれらを「New Toy」と呼んでいた。谷くんのおかげで
僕もこれから数々の「New Toy」と遊べるのが楽しみである。
谷くんの協力のもと最新のToyを使って僕の世代にしかできない音楽を創り続けたい。
2026.03.05 角松敏生
【角松敏生 プロフィール】
1981年6月、シングル・アルバム同時リリースでデビュー。以後、彼の生み出す心地よいサウンドは多くの人々の共感を呼び、時代や世代を越えて支持されるシンガーとしての道を歩き始める。
また、他アーティストのプロデュースをいち早く手掛け始め、1983年リリースの杏里「悲しみがとまらない」、1988年リリースの中山美穂 「You’re My Only Shinin’ Star」はどちらも角松敏生プロデュース作品として業界チャート誌の1位を記録、今だスタンダードとして歌い継がれている。
1993年までコンスタントに新作をリリース、いずれの作品もチャートの上位を占める。年間で最高100本近いコンサート・ツアーも敢行、同時に他アーティストのプロデュース作も上位に送り込んだ角松だったが、当時の音楽シーンへの疑問などに行き詰まった彼は、この年の1月27日、日本武道館でのライヴを最後に自らのアーティスト活動を『凍結』してしまう。
しかしこの”凍結期間”には、「プロデュース活動」の依頼が殺到し、プロデューサーとしての手腕を存分に発揮することになってしまう。
また、1997年にNHK”みんなのうた”としてリリースされたシングル「ILE AIYE(イレアイエ)~WAになっておどろう」/AGHARTA(アガルタ:角松が結成した謎の覆面バンド )は社会現象ともいえる反響を集め大ヒット。
1998年2月<長野冬季オリンピック>閉会式の大舞台に立ち、今や国民的唱歌「WAになっておどろう」を披露。全世界に向けてこの映像が映し出された。
『凍結』から約5年、角松敏生は遂に自身の活動を『解凍』することを宣言。1998年5月18日、活動を休止した同じ日本武道館のステージに再びその姿を現した。その「He is Back」コンサートのチケットは発売直後にソールド・アウトとなる。
翌年リリースしたアルバム「TIME TUNNEL」はチャート誌初登場3位を記録し、変わらぬ支持の大きさを実証してみせた。
その後は、2作連続でシングルをTOP10入りさせるなど、作品ごとに新しいコンセプトで挑むアルバム、ライブDVDなどをリリース。他にも映画音楽や映像作品の制作、そして、様々な形態で精力的にコンサートツアーも行い、その妥協を許さないスタンスとクオリティーで常に音楽シーンの最前線で活動している。
2011年6月には、デビュー30周年を迎え、その記念ライブを横浜アリーナで行った。
2014年3月、オリジナル・アルバムとしては約3年7ヶ月振りとなる「THE MOMENT」をリリースし全国ツアーを始め、数多くのライブをこなす。